多様性のなかに存在の唯一性をみる。
ところがこれは簡単ではない/簡単かもしれない。
存在の背後に存在を認識するとき、すべての主語が存在となる。
「花が存在する」「テーブルが存在する」「コップが存在する」
のではなく、
「存在が花する」「存在がテーブルする」「存在がコップする」
そうして唯一性がいかに多様性に満ち溢れているかがわかる。
一神教の問題とは、神に限界を加えるという冒涜によって(つまり言葉だな)
そもそもの矛盾を孕んでいるのであって、
耐えざる偶像崇拝の忌避のみが、存在の唯一性を明かしてくれる。
そのとき、無神論は究極的な偶像崇拝の忌避の形態であるのだ。
そのとき、無神論は理神論の究極的な表現足りうる。
なんだ。
ところがこれは簡単ではない/簡単かもしれない。
存在の背後に存在を認識するとき、すべての主語が存在となる。
「花が存在する」「テーブルが存在する」「コップが存在する」
のではなく、
「存在が花する」「存在がテーブルする」「存在がコップする」
そうして唯一性がいかに多様性に満ち溢れているかがわかる。
一神教の問題とは、神に限界を加えるという冒涜によって(つまり言葉だな)
そもそもの矛盾を孕んでいるのであって、
耐えざる偶像崇拝の忌避のみが、存在の唯一性を明かしてくれる。
そのとき、無神論は究極的な偶像崇拝の忌避の形態であるのだ。
そのとき、無神論は理神論の究極的な表現足りうる。
なんだ。